電子の海でダンスを

あたまのゆるいシナリオライターの雑記帳。

みっともなくあがくこと。

 

生徒さんの複数人が、なんとなく壁に当たってる気がするから書く。

自分がうまくないという確信に当たる。自分の限界みたいな場所にぶつかる。作り手になるとあるときそういうところに行きつく。行きついた先、うつみたいになる人もいる。

 

クリエイターみたいな人たちは、仕事としてクリエイターになる前、皆、ちょっとなんか鳴らした経験がある。学校で一番絵がかけた、私は皆より文章がうまいという自覚、何か賞をとった、某大手クリエイター会社に入った、フォロワーが●万人、いろいろある。

それは全部、自分が特別だという証だ。

 

そういう人が、仕事として何かするようになる。ある時に壁に当たる。

『私くらいの人はその辺にいる』

『私は明確に●●さんより絶対にうまくない』

『私の才能は、それほどではない』

『私はにあったのは、才能じゃなくて、凡庸な何かだった、それがちょっと普通の人の中で、頭一個抜けてただけだった』

『先生が●●さんに目をかけてる。ひいきじゃなくて、本当に●●さんは、私よりよほどうまい、しかも、私より若い……』

『私は●●さんよりかけてない』

 

自分の特別が粉々に打ち砕かれ、立ち往生する。

これはきっといろんな人にあるのだと思う。

 

ある人は粉々に打ち砕かれる前に、評価されることから逃走する。作らなくなる。優しく甘いことだけもらえるところに逃げ込む。仕事を投げ出す。仕事そのものをやめる。

 

ある人は自己卑下して自分をこき下ろす、あるいは人に哀れさを見せることで、自分が立ち往生していることの許しを得ようとする。本当に泣き出す人だってたくさんいる。

「私なんか大したことないんです、だからできるはずないんです」

「仕事を前にして何もできない、私は無能なんです」

「頭が真っ白になって、涙が止まらない、だからできないんです」

これらもまぁ、一種の逃げなのかもしれない。別に悪いとは思わないが、たまにもったいないとは思う。

 

あとはひたすらみっともなくあがく。今を何とかしようとなりふり構わずやる。そこからへたくそな自分を抱えて、自覚しながら、踏ん張る。逃げない、というように見える。

 

作り手として残っていくのは、最後の人たちだった。逃げるのが悪いというのではない。別に逃げたって死ぬわけじゃなし、なんだってきついときは逃げたっていい。ただ、ずっと商業の世界に残っている人とか、教えていてすごく伸びた人とかに共通するのは、最後の人だったように思う。

 

素晴らしくうまい人、私から見て神様みたいな人だって、あるいは私の師匠だって『ああ、自分はうまくないな』という何かを抱えている。もちろん私もそうだ。私ほど凡庸な、才能のない人間もいないだろう。私が文章で糊口をしのげているのは、ただ子どもの頃に多くの本を読んだというその量によってだけなのだと思う。それはさして特別なことじゃない。

 

生き残ろうとした私は結構みっともなかったと思う。うまくないなりに、どうしたら仕事をとれるのか必死だったし、私のみっともなさを幾人かが嫌っているのも知っている。今ある実力で、できるだけ大きい仕事を、そして今より明日、なんとかもっとうまくならなければ、とじたばたするのは、かなりみっともないことだった。かっこ悪いし。

競って記事を書いたとき、今持っている力のすべてで打ち込んだけれど、最後まで目標にした人を超えることもできなかったし、その人はもう誰が見ても明らかに、群を抜いてうまかった。何かケチをつける隙間もなく、本当にうまくて、私より若く、そして引き抜かれていった。

私なんか大したことなかった。それはつらいことだ。

 

つらいこと、私は非凡である、という現実を超えるときに、結局大事になるのは、人格の成熟度、人間的な耐久力、みたいなところだというのはなんとなく感じる。結局巡り巡ってうまい下手ではなく、自分の人格的なところに回帰していく。

 

そして非凡であるという認識を超えるには、一種のかっこ悪さ、みっともなさを受け入れる覚悟をもつ必要があるんじゃないかなぁと思う。漫画や小説に出てくる、物語のクリエイターはとてもかっこいい。しかし、現実のクリエイターは、人間であり、別にいつもかっこいいわけじゃない、みっともないときもなさけないときも、たくさんある、ということを受け入れる覚悟がいるんじゃないかな、なんて思う。

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